小鹿田焼について

小鹿田焼について

小鹿田焼は、16世紀末に当時の筑前藩主であった黒田長政が豊臣秀吉とともに朝鮮に出兵した際、有田焼の始祖・李参平もそうであったように朝鮮陶工を日本へ連れ帰ったことからその歴史が始まりました。
その陶工・八山は福岡県直方の高取山に窯を開き、孫の八郎が小石原焼を開窯しました。

その後18世紀(江戸中期)、日田の代官が小石原焼の陶工であった柳瀬三右衛門を小鹿田に招き、陶芸の技術を伝授してもらい、
鶴河内村小鹿田地区の仙頭であった坂本家が土地の提供者となり、資本金を大鶴村の黒木十兵衛が用意して開窯されました。

山間僻地に位置していることや半農半陶と言われる作陶のペース、一子相伝による技術の継承などから、2百年余りの間、外部からは閉鎖された環境で李朝系の登り窯、唐臼、蹴轆轤などの古来の伝統が保たれました。

昭和6年、民藝運動の創始者である柳宗悦の来山により、その伝統技法と質朴な作調が賞揚されました。
昭和29年には、世界的にも著名な陶芸家であった英国のバーナード・リーチ氏や濱田庄司・河井寛次郎も来山されて、多くの指導をされた経緯があります。中でも、バーナード・リーチにより農家の肥料用壺にハンドルを付けるデザインを教わった「リーチ型ピッチャー」はあまりにも有名です。

昭和45年に「記録作成等の指置を講ずべき無形の文化財」に選択された小鹿田焼は、平成7年には国の「重要無形文化財」に指定され、あわせて小鹿田焼技術保存会は保持団体として認定されました。

そうして世に知られることになった小鹿田焼ですが、現在でも最も大切な柳宗悦からの教え「猥りに昔を崩さぬ様」という言葉を固く守り続け、大量生産には走らず、ガス窯や電動ろくろといった現代の道具を使わず、9軒の窯元が全てそれぞれの家族のみで原土の採取や生地作りから全てを手仕事で制作しております。
また、民窯である小鹿田焼は、窯名や作家名を作品に入れることはしません。小鹿田焼は地域ブランドとしての姿を今も守り続けています。

小鹿田焼の代表的な技法は、ろくろを回しながら金属の鉋をあてて細かい連続的な文様をつける「飛び鉋」やろくろを回しながら刷毛をあてて連続的な濃淡の文様をつける「打ち刷毛目」が特に有名ですが、他に「打ち掛け」「流し掛け」「指描き」「櫛描き」といった技法も小鹿田焼らしさを表現する特徴となっています。

 

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